小倉織の歴史-文献の中に登場する小倉織と現物の史料-

小倉織は文献の中には江戸初期から登場するのですが、近年になって江戸期の史料が見つかるまで、残っているものが明治から昭和にかけて使われていた袴だけだったため、「幻の織物」と呼ばれることもありました。「小倉木綿」「小倉嶋」「小倉織」という呼び方で文献に登場する小倉織を時代順に並べて見ると、他地域の木綿織物と同じような経過を辿った小倉織の歴史が見えてきました。江戸の初期には木綿の生産はまだ少なく貴重品だったため、大名の間で贈答品などに使われていました。しかし、木綿で織った布は暖かくて肌触りが良く、糸を作るのが比較的簡単なため、日本全国の暖かい地域に広まり、あっという間に各地で栽培されるようになりました。江戸の後期には各地に銘柄木綿と言われる木綿産地が生まれ、庶民の衣服としてなくてはならないものでした。丈夫で藍色の縞が美しい小倉織は袴、帯に適していたので全国に広まり、備前児島、諏訪、足利など各地で生産されるようになりました。衣服の様式が変わって、需要がなくなり一度は消えてしまった小倉織ですが、緻密で美しい織物を地域の大事な文化として残していきたいという思いで、再び織られるようになり、新たな歩みを始めています。

糸の種類
製品
残っている史料 時代・年代 文献の中に出てくる小倉織

羽織、袴、帯、下駄の緒など

和綿・手紡糸

「利休尻ふくら」箱の緒
(真田紐)
(永青文庫所蔵)

「利休尻ふくら」箱の緒

江戸 1605
~1616
徳川家康が小倉織の木綿の袷羽織を着て鷹狩に出かける
柏崎具元 「事跡合考」
1612
~1614
京都南禅寺に小倉の蒲団、小倉木綿が送られる
金地院崇伝「本光圀師日記」
1616 徳川家康の遺品にこくら木綿反物や風呂敷が含まれる
「駿府御分物御道具帳」
1625
~1630
細川忠興が小倉嶋の調達を家臣に命じる
細川小倉藩「奉書」「日帳」
1684 小倉帯を前結びに・・・ 帯に小倉嶋
井原西鶴「好色二代男」
縞小倉羽織狂言用
(徳川ミュージアム所蔵)

縞小倉羽織狂言用

1736
~1740
木町の老婆が細い糸を3本、4本撚り合わせて袴地を織る
「門司新報」明治28年
1767 毛綿(木綿)の帯、袴地を見せられるが皆下品である
長久保赤水「長崎行役日記」
1769 箱の緒(ひも)小倉織也
細川興文「利休尻ふくら図」
1772
~1780
足利地方に小倉織が伝わる
1783 小倉木綿は他国にはない上品なものである
古河古松軒「西遊雑記」
1789
~1801
備前児島で真田、常袴、小倉帯盛ん
1789~ 諏訪小倉織盛ん

小倉織全国各地に伝播
小倉織全国各地に伝播

1795 小倉島 随分厚く、もろより(双糸)の木綿糸にて島をおる
津村淙庵「譚海」
1810 小倉侯から小糸島(小倉織)一反を贈られる
伊能忠敬「測量日記」
1837 小倉羽織・・・厚き木綿縞で賤者羽織や馬袴に用いる
野袴・・・小倉木綿の竪茶縞  粗い
小倉帯・・・色は革色・茶・紺色など種々、無地、縞筋
喜田川守貞「近世風俗誌(守貞謾稿)」
1842 木綿類にて国産と呼べるものには小倉織がある
大蔵永常「国益国産考」
1848
~1853
小倉織盛ん 糸は京都郡大橋近辺から黒崎、若松に至る
10,000戸、織り手は藩士婦女の内職3,000戸
「門司新報」明治28年
1849
~1850
小倉藩の小倉織独占計画失敗
「門司新報」明治28年
1856
~1863
出雲の国へ糸引き稽古のため4人の女性派遣
糸車、つむなどの道具を買って帰る
「中村平左衛門日記」
小倉藩士の半袴
(北九州市立自然史・
   歴史博物館寄詫)
1866 長州藩との戦いを避けて藩士は城を自焼、八方に離散

袴、霜降りの学生服など

洋綿・機械紡績糸

明治 1868 明治維新
1896 小倉織物会社創立
青少年の袴25点
(北九州市立自然史・
    歴史博物館蔵)
1901 金融恐慌のあおりで小倉織物会社倒産
大正
昭和 小倉織の生産がなくなる
1984 築城則子氏小倉織復元

洋綿・機械紡績糸

平成

帯、小物など

和綿・手紡糸

1995 豊前小倉織研究会 発会
複数の染織家、会社などによって
再び小倉織の制作が始まる

※文献の内容を現代の言葉で表記してます